【短歌とエッセイ】田中有芽子「香りの手紙を書こうとしていた」
[次世代短歌プレミアム]
香りの手紙を書こうとしていた
田中有芽子
理想の香水を探していた時期がある。
欲しい香りのイメージは、私の頭の中でははっきりしていた。求めるものが明確であるために、実際に見つけることがより難しくなっていた。自分しか知らない幻の香りを探すのは難しい。
宝飾店がジュエリーをイメージして特別に作ったという香水のことを知った。そこはガラスケースに豪華なアクセサリーが並ぶ店で、ハイジュエリーを買う見込みが全然なさそうな私にも丁寧で感じの良い応対をしてくれた。魔法のランプを思わせる形の壜の青い蓋を取ると異国の寺と深い森の樹木の香りがした。これじゃない。
剥き始めた瞬間のバラ科の赤い果物や柑橘類、春の庭に咲く黄や白の花、樹木に咲く革のような厚みのある花びらの花、菩提樹の蜂蜜、それらの香りが一体となってホログラムの輝きの多彩さで新鮮に複雑に香り続ける。そんな香水を探していた。もともとそんなものは無いのかもしれない。そのうちに結婚して子供が生まれて、香水どころではなくなった。
そして息子が2歳の時に、私の乳がんが見つかった。最悪のタイミングで最悪の結果が出たと思った。今、考えればそれは違う。私がかかったタイプの乳がんは気楽に構えて良いものではなかったけれど、もっと難しい病気はいくらでもあるだろう。でも、その時はとてもそんな風には思えなかった。
(この子は私のことを覚えていられるだろうか。)
もし、思いのほか早くこの世を去ることになったら、息子は物心がついた時には私を思い出すことすらできないかもしれない。育てるどころか、こんなにも可愛く大切だと思っている気持ちすら伝えられないままになってしまうのだろうか。想像するだけで辛くてたまらなかった。私は大人になった息子に会うことができないのかもしれない。治療と育児のスケジュール調整を考えているうちに泣いてしまうこともあった。
崖に棲むシロイワヤギを数えよう脆い寝床で眠れ眠れよ
未来の息子に何通もの手紙を書こうとした。3歳の息子に、7歳の息子に、10歳の息子に、それぞれ伝えたいことがあった。すぐに到底書ききれないことに気がついた。
12歳の、15歳の、18歳の、20歳の、どの息子にも幸せになってほしい。少しでも役立つことを伝えたい。写真やビデオを使ったとしても一緒に暮らすはずだった時間と等価に伝えることができるとは思えなかった。どうしても生きていたかった。
その頃、また香水を探し始めた。ネットで少しずつ買うことが簡単になっていたこともあって、気になったものを片っ端から試した。
そんなことをしたのは、「香りが古い記憶を呼び覚ます」という説を聞いたことがあったからだ。プルースト効果というらしい。