とかげまろぅ・選評「短歌まってます」第2回テーマ「鳥」
昨晩のLIVE勉強会で触れた、とかげまろぅさんの選評原稿を公開いたします。
LIVE勉強会の様子は以下の動画でご覧ください。楽しくてとても勉強になる内容です!
動画の「高評価」や「チャンネル登録」は大変な励みになりますので、ぜひお願いします。
以下、とかげまろぅさんからお預かりした原稿です。
はじめましての方も、お世話になっている方も、こんにちは又はこんばんは。とかげまろぅです。
先日、【短歌募集】テーマ「鳥」─ 服部真里子「短歌まってます」の選評結果の発表並びに短歌の勉強会を主旨としたYouTube Liveにゲストとしてお呼びいただきました。その節は貴重な経験をさせていただきありがとうございます。
さて、服部真里子先生により選評がおこなわれた「短歌まってます」ですが、YouTube Liveにお呼びいただくにあたり、僭越ながら私めも詠草リストを共有していただきました。そして、思いました。
……いい歌、多すぎて選びきれないよなぁ
そこで、今回は「短歌まってます」に寄せられた短歌のなかから、私とかげがどーーーーーうしても紹介したくて堪らない!というものを数首選んでこのnote内で細々と愛を語らせていただこうかと思います。
※全てとかげまろぅによる個人的な番外編といった位置づけとなります。ご了承ください。
それでは早速。
絶対外せない!とかげの愛が止まらない3選
川沿いの藪を刈られて雛隠す場所を我が家の立葵とす/新井田歌子
――川辺の薮が人の手で刈られ、雛が隠れる場所が失われてしまった。その雛のために、我が家に咲く立葵の葉陰が一時の避難所となる――
この歌では、人間の暮らしの都合で自然が損なわれる中でも、小さないのちを思いやるあたたかさを豊かな情景描写とともに詠まれています。
歌を細分化して解釈していきますと、まず「薮が刈られる」という現象からは、人間の合理や秩序によって自然や野の自由が奪われることの不条理さを風刺として読み取ることができます。
また、雛は弱く守られるべき存在―自らの子どもや弱者の象徴、立葵はまっすぐに伸びる夏の花であり、「庇護」「包容」「優しさ」といった意図が内包されていると判断できます。
全体として、この短歌からは、自然破壊とそれに対する静かな抗い、そして共生への祈りを感じました。
特に「我が家の立葵とす」という下の句には、淡々とした語り口調ながらも誠実な優しさと慈しみが宿っています。「とす」という終止の言い回しもやわらかく、決意や宣言よりも静かな受容・提供の意志を感じました。
細部まで丁寧に作り込まれており、心に染み渡る短歌です。
如月の眠れぬ父へ白鳥の首のいくつか弛緩してゆく/深川泳
この歌の背景には如月の寒々とした季節、眠れない父の存在を案じる心があります。
白鳥の首がいくつもたわんでいるという光景は、穏やかさや安らぎの象徴であると同時に、生命の力がすっと抜けるような、死の気配を感じさせます。そうした白鳥の姿に、語り手は何かしら「眠れぬ父」への慰めや願いを重ねているのでしょう。
「どうか、このように静かに休んでほしい。安らぎを得てほしい」
こうした祈りと同時に
「緩やかな弛緩、死へと向かっているのではないか」
という不安や無力感を汲み取ることができます。「弛緩しており」という進行形で締められていることからも容体が悪化しつつある緊迫感が伝わります。
「眠れぬ父」の存在に心を寄せつつ、白鳥の静かな佇まいに安らぎと死の気配を同時に見ている、そんな深い慈しみと不安の交錯を感じました。
今日の日をここまで終えて夕空にミシン目を切る鴨の一列/夏谷くらら
学校なり仕事なり、 「今日という日」をひとまず納めたという安堵と共に夕空を横切っていく鴨の一列。その隊列は、まるで空にミシン目を入れるように小さな断絶を作りながら通り過ぎていく――
この歌ではそんな印象的な光景を詠まれています。
日常の終わりと時間の繋がりに刻まれる「切れ目」の意識を繊細に表現されており、技術の高さを感じました。
また、鴨の隊列が空を「切っていく」様子は、視覚的な鮮やかさと同時に
「日々はこうして裂かれ、ちぎられ、やがて過去となる」
という意図を内包しているように感じ、深く共感しました。
ほっこりが止まらない!とかげ癒されまくり2選
パン屑が散らばっているバルコニー恋の舞台を整える爺/リー・ジー・チャン
この短歌は、日常と舞台、滑稽さと慈愛が絶妙なバランスで詠まれており、読者にふとした余韻を残してくれます。
爺という老いた存在が、なお「恋」や「舞台」という青春を感じさせるアイテムと結びつけられることで、人生の終盤に差し掛かっている人の優しさ・情熱・滑稽さが浮かび上がってきます。
この歌の主人公とも言える爺が詠み手にとってどのような立場であるかによって解釈が変わってくることも興味深いポイントです。
自分が爺である場合は、老いてなお誰かのために「舞台を整える」役(舞台監督的な立ち回り)を果たそうとしていることへの自虐を含んでいると考えられます。
逆に第三者が爺である場合は、可愛らしくお茶目でありながらどこか侘しさがあり、胸を打つ存在として描かれていると考えられます。
全体として、「パン屑」という具体的なモチーフから一転、「恋の舞台」へと跳ぶ比喩の飛躍が秀逸であり、最終句の「爺」に感情を集約させている点にも詠み手の技術の高さを感じます。
滑稽さと深い情が同居するユニークな表現が印象的であり、特に「整える」という動詞からは爺の所作の繊細さや丁寧さが伝わってきます。
微笑ましいながらも奥深い、素敵な短歌でした。
とっと・ちゅん・がぁがぁと呼び分ける児の世界に鳥は三種類いる/笛の音
この短歌は、幼い子どもの言葉の世界とそれを見つめる大人の優しい眼差しを、やわらかく、そして少し切なく描いています。
「とっと・ちゅん・がぁがぁ」という印象的な上の句は、 幼児語で鳥を区別して呼ぶ声の具体例でしょう。 幼い子どもが、自分なりの感覚と言葉で世界を整理し、名付けている様子が臨場感を持って伝わってきます。その語彙は大変狭く少なくありますが、豊かで鮮やかな感性は大人に無いものです。
「鳥は三種類いる」 という断定も印象的であり、はっとさせられます。大人の世界では何千何万と分類される鳥たちが、子どもにとっては「三種類」に収まっているのです。これは「単純」なのではなく、子ども独自のリアリティを持った世界があることを示しています。少ない語彙ながら自分なりに世界を区別している子どもの中で、鳥は「とっと」「ちゅん」「がぁがぁ」の三つに分類されている――そのこと自体が、小さな世界の豊かさと愛らしさを強く印象づけてくれるのです。
そして同時に、今はこの三種の言葉で世界を語っている子どももいずれ語彙を増やし、大人によって定められた名称を呼び分けていきます。この短歌が癒しだけでなく切なさをも内包しているのは、そういった誰もが通ってきた成長を歌の先に捉えた読者が諸行無常を感じ取るからでしょう。
この歌は、「児の世界」の刹那とかけがえのなさをすくい上げ、言葉に留めたアルバムのような役割を果たしているのです。
また、語り手が決して「子どもを訂正しない」「正さずに見守っている」ことも大切で、それがこの歌に深い優しさと詩的な尊重を生んでいます。
全体として、「三種類」という児の世界の小ささと確かな充足感、そしてそこに宿る感性の豊かさを讃えた非常に愛情深い一首だと思いました。
考えさせられる……とかげの心が震えた2選
オリーブをくわえて戻る鳩の背にガザの時計が重すぎる春/風ノ桂馬
この短歌は、平和の象徴としての鳩、その背に乗る「重すぎるガザの時計」という比喩を通じて、希望と現実の落差、戦火の重みを深く詠み込んでいます。
なかなか解釈の難しい短歌でもあるので、細分化して分析していきましょう。
まずは冒頭の「オリーブをくわえて戻る鳩」という表現について。ここでは、旧約聖書『ノアの箱舟』の一場面に由来する「平和の回復」「希望の到来」を暗示していると考えられます。オリーブは神に選ばれ愛された『イスラエル』の象徴として聖書に描かれている植物です。
戦争の後に、再び命と平和が芽吹くよう祈りを込めて鳩がオリーブ(戦場であるパレスチナにて多く栽培されている植物)を持ち帰る。そんな光景が浮かび上がってきます。
次に、後半の表現「鳩の背に ガザの時計が重すぎる春」について。「鳩」という平和の象徴の鳥が描かれている一方で、その背には「ガザの時計」、つまりガザ地区における時間――歴史の停滞、終わらぬ争い、苦難に苛まれる日々が重責として乗っているのです。
この鳩は平和の象徴だけでなく現実の重みを背負わされる存在となり
「希望を運ぶはずの鳥が戦争という現実の重責に耐えている」
という痛ましい逆説を抱えているという解釈ができるでしょう。
また、春という季節からは希望や芽吹きを感じるものですが、この歌では「重すぎる」という形容詞が付け加えられています。つまり、春という季節に感じる希望を凌駕するほどの現実の悲惨さが影を落としているのです。
希望と再生の春と、終わらないガザの凄惨な現実という強烈な対比を通して、「希望の到来」の意味を問うているのではないかと考えました。
全体として、この短歌からは
「希望の象徴さえも現実の重圧に耐えかねている」
という風刺とともに、祈りに似た訴えと懊悩が伝わってきました。
平和を願う気持ちがありながらもその理想はあまりに遠く、「鳩」が戻ってきても現実は変わらない――そんな世界への悲痛な叫びを感じ、深く考えさせられる短歌でした。
殺処分することでしか守れない鶏(とり)の命の重さ知る冬/桜咲
この短歌は、命を守るために命を奪うという逆説的な現実を詠み込んだ、痛切で重みのある一首です。
「殺す」と「守る」をはじめとした対比構造によって、必要悪に対する倫理的葛藤が鋭く表現されています。
まず、上の句の「殺処分することでしか守れない」について。これは非常に逆説的な表現です。
例えば、鳥インフルエンザなどの感染拡大を防ぐため、感染した鶏や同じ鶏舎の鶏を殺処分することがあります。これは他の命や社会全体を守るための措置ですが、当然多くの鶏の命は絶たれます。
この矛盾に対して、詠み手は「仕方がない」で終わらせず、その行為が持つ重さを真っ直ぐに問いかけてきます。
次に、下の句の「鶏の命の重さ知る冬」について。
殺処分される対象は鶏という、人間の生活と密接に関わる生き物です。この歌で描かれているのは鶏ですが、殺処分の対象は豚、猫、犬など種類は違えど、当然のことながらどれも人間との関わりが深い生き物であると分かります。
人間のために殺処分されるという現実、その不条理さへの気づきを通して、普段あまり「命」として意識しない存在の「重さ」を考えさせられるのです。
また、「知る冬」という結句は季節特有の寒さ、死、静寂といった感覚をもたらしてくれます。
いずれも淡々とした表現ながら、内面に渦巻くジレンマと痛みを感じ取ることができるでしょう。
そして、細部に注目したときに気づくのが「しか」という助詞の重要性です。ここでは、殺処分という現実の重みを訴えながらも「他の選択肢はない」という必要悪を受け入れることへの懊悩を含んでいます。
全体として、この短歌は「命を守るために命を奪う」という矛盾した倫理構造、人間の都合のために殺される鶏という小さな命の価値を丁寧に描いています。単なる事実の提示にとどまらず、「私たちはこの矛盾をどう受け止めるのか」という静かな問いかけとして心に響く作品です。
番外編!とにかく皆さんにお届けしたい2選
️アルビノの鴉が嗤う平和とは平和を祈ることのない日々/白鳥
アルビノとは、メラニンの生合成に関わる遺伝情報の欠損により先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある症状の総称であり、アルビノに該当する生き物は混じりのない文字通り真っ白な姿となることが特徴です。
真っ黒な鴉がアルビノであることで平和の象徴である鳩を彷彿とさせる姿となったという事実。
そして、姿かたちからその対象への解釈を勝手に広げる人間への風刺じみた問いかけと断定口調が印象的な歌です。
鳥人間コンテストってそういう意味じゃないんですよ、わかる?「クルックー」/汐留ライス
「鳥人間コンテスト」という大会名を初めて聞いたときに
「鳥の仮装とか真似とかする大会?」
と思うことは全日本人に共通するあるあるだと思います。こんな動画があったことを思い出しました。
以上となります。如何でしたでしょうか。
まだ紹介したい歌がいくつかあるのですが、如何せん賞応募やら模試やら中間テストやら(順番にとかげの優先順位が現れている)が重なっていたり、三日寝てないわ雨の降る夜中に出歩くわとてんやわんやだったり(以下言い訳略)
――力尽きてしまいました。ぴえん。
この記事も授業の合間に単語帳を開く同輩を横目にスマホぽちぽちしまくって書いていたりします。
何をやっているんだ。
いや、よく考えたら貴方達が悪いんですよ紹介したくて居てもたってもいられなくなるような歌ばっかり詠むから!ありがとうございました!!
では!!!
お読みいただきありがとうございました。トカゲ
(とかげまろぅ)
■歌人プロフィール
とかげまろぅ @tokagemarou
2024年3月より短歌を始めたしがないトカゲです。現高校三年生(2007生)。第18回全日本学生ジュニア短歌大会︰秀作賞/第61回現代俳句全国大会 青年の部:入選/第28回全国高校生創作コンテスト 短歌の部︰佳作/詩の街ゆざわ2024 高校生の部︰優秀賞/第16回相馬御風顕彰ふるさと短歌大会︰奨励賞
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