服部真里子「短歌まってます」テーマ:蝉 選評
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[短歌投稿企画]
短歌まってます テーマ「蝉」
服部真里子
こんにちは、初めまして。服部真里子と申します。
早稲田短歌会出身で、『行け広野へと』と『遠くの敵や硝子を』という二冊の歌集を出しています。また、NHK文化センターで「こんにちは短歌」と「おはよう短歌」の二つの講座を担当しています。
このたび、短歌投稿欄「短歌まってます」の選者を務めることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
今回は初開催ということで、たくさんのご投稿をありがとうございます。歌を選ぶとは、すなわち私の価値観を問われるということだなと実感しました。私の選はあくまでも、私ひとりの、選んだ時点での価値観を示しているにすぎないということを、覚えておいていただけたらうれしいです。とはいえ、ある程度の普遍性はあるかなとも思っています。
今回の題は「蝉」でしたが、「蝉時雨」と「蝉ファイナル」という言葉を使った歌が多いと感じました。
みんながよく使う言葉を使って歌を作ることは、別に悪いことではありません。この言葉でしか表現できないものはあると思いますし、どちらもつい使ってみたくなる、魅力的な言葉ですよね。「時雨」と書くだけで、しずかな雨の情景が浮かんできて、蝉の声を聞きつづけるうちに耳の奥がしんと静まるあの感じを再現できます。「蝉ファイナル」も、物悲しいはずの出来事がちょっとおもしろく描かれていて、含みのある言葉です。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみてほしいのです。そこ、本当に「蝉時雨」という言葉でいいですか?
読者は、あなたの短歌に「蝉時雨」という言葉を見つけた瞬間、目の前にあるあなたの短歌が呼び起こすものより、世の中に流布する「蝉時雨」という言葉のイメージを思い描いてしまうかもしれません。みんながよく使う、きれいな言葉やおもしろい言葉は、時としてあなたの短歌よりも強いのです。だから、使うときには注意が必要です。あなたの中の豊かで複雑なものが、読者の頭の中で、「蝉時雨」という言葉にかき消されてしまうかもしれないのです。
そして、それよりもっとずっと恐ろしいのは、あなた自身があなたの中の豊かで複雑なものを見失ってしまうことです。
あなたが蝉の声を「蝉時雨」と呼んだ瞬間、あなたの頭はそれ以外の表現を探すことをやめてしまいます。本当は、「蝉時雨」が意味するところより、もっともっと繊細で、世界中であなたにしか言葉にできない何かを感じ取っていたかもしれないのに。
だから問い続けてほしいのです。あなたが表現したかったものは、本当に「蝉時雨」という言葉で表現できていますか? 「蝉時雨」は、本当にあなたの表現したいものにふさわしい言葉ですか?
もちろん、答えが「はい」の場合もたくさんあると思います。そのときは、「蝉時雨」という言葉に負けないような、あるいはその巨大さを逆手にとった歌を作ればいいのです。
今回投稿していただいた中にも、そんな歌はありました。というわけで、ご紹介していきます。