【短歌のひみつ】渡邊新月「短歌と漢語について」
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■歌人プロフィール
渡邊新月(わたなべ・しんげつ) @W_Shingetsu
東京大学Q短歌会所属。第69回角川短歌賞。
[短歌のひみつ]
短歌と漢語について
渡邊新月
古典和歌と近現代短歌はどのように違うのか? という問いにはいくつかの観点から答えることができる。意外と意識されづらいけれども私がとても重要だと思っている「ひみつ」のポイントは、漢語を使用するかどうかという点である。ここでいう「漢語」はざっくりと、音読みする漢字で構成される語と考えて頂ければよい。
いわゆる古典和歌では、漢語を原則として歌の中に詠み込まない。例えば、飛鳥時代から鎌倉時代までの約500年間の100歌人の和歌を集めたアンソロジーである「百人一首」を確認してみて頂きたいのだが、この百首の和歌の中に漢語はほとんど用いられていない。漢語を用いないという規範はそれほどはっきりと、和歌創作の前提として共有されたものなのである。『古今和歌集』以来、「唐の詩(=漢詩)」に対する「やまとの歌(=和歌)」としてアイデンティティを形成してきた和歌が、和語での表現を基本とし、漢語を排したことはある意味当然といえば当然のことであった。
しかし近現代短歌ではそのようなことはない。和歌が短歌への一歩を踏み出した記念碑的文章「歌よみに与ふる書」で正岡子規は次のように説く。
生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。
「六たび歌よみに与ふる書」
如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、これを外にして歌の詞といふ者は無之候。漢語にても洋語にても、文学的に用ゐられなば皆歌の詞と可申候。
「七たび歌よみに与ふる書」
今までの和歌に用いられていた「雅語」や「日本固有の語」にとどまらず、様々な語種の言葉を用いて短歌を詠もうという。このとき、「俗語」や「洋語」(外来語)の導入と並列で、漢語の導入が論じられていることに注意したい。五七五七七の定型の中で漢語を使用することは、実は近現代短歌において本格的に成熟してきた新たな文体の一つなのである。
髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま 与謝野晶子
山川登美子・増田雅子・与謝野晶子『恋衣』(1905)
桜花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 馬場あき子
『桜花伝承』(1977)
灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜 小原奈実
『穀物』創刊号(2014)
「王者(わうしや=おうじゃ)」「水流(すいりゅう)」「雷(らい)」の漢語の堂々たる、厳しく、鋭い響きに、近現代短歌ならではの文体を感じ取ることができる。散文や話し言葉では漢語と和語は当たり前に共存しているので、短歌定型の中の漢語の特別性は見逃されがちであるが、この点を意識すると近現代短歌の文体的特徴のひとつが浮き彫りにされるだろう。
和語や外来語、外国語など様々な響きが重なり合う現代短歌の言葉の中で、漢語にどんな響きを持たせることができるか——そこがこれからの短歌と日本語のためにも大切な問題であるように思う。
(渡邊新月)
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